論理は直感に負ける

「何か気になるなあ、ひっかかるなあ」というときは、

たいてい、あとあと問題になることが多い。

こう感じたら、確かめてみたり、人に聞いてみたりすると良いと思う。

こう感じるときは、直感のようなものが、働いているのではないかと思う。

「論理」はすでに存在しており、いつでも調べれば出てくる、ひっぱり出せる、準備できる。ときどき、自分で経験や調査から新しく生み出すこともできる。

「直感」はいつでも出てくるわけではない。ときどき、ふいに出てくる。

そして、論理は直感に負ける。

もちろん、いつでもそうではない。論理が確立している場面では、直感の出る幕はない。しかし、論理が直観に勝っても面白くない。直観が論理に勝ったら面白い。

何かひっかかるときは、確かめてみて、「やっぱり何ともなかった」という経験も、直感を磨くためには必要と思う。直感になるべく頼るようにしてみて、直感を確かめることの繰り返しが、直感を磨いてくれると思う。

そして、鍛えられた「直感」は、論理でギチギチに考えてもうまくいかないことを、すんなりとこなしてくれることもあるだろう。

もちろん、すでに論理の通っている話があるのに、直感を使おうとするのは間違いである。たとえば、治療法が確立されているのに、「ちょっとこっちを試してみよう」などということ。

まずは、既知の論理は押さえておく必要がある。

また、自分の考えを通すために、関係者や同僚などに負担をかけないようにしたい。たとえば、「こう思うから皆さんも同じようにやってみてください」などということ。

皆に同じようにしてもらうためには、ある程度の論理と確実性も必要である。まずは自分一人でためしてみて、ある程度の確信が持てたら、勧めてみるのもよいだろう。

ある意味、「研究」というのは日々の生活・仕事・業務のなかから「経験」や「直感」をたよりに「論理」を生み出す作業ではないかと思う。

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