「大学」を味読する 己を修め人を治める道 伊與田覺 致知出版社
まえがきより、「日々自分の身を修め、更に世のため人のために尽くしてやまないような人物を大人(たいじん)と申します。その大人となるのに最も手近な古典が『大学』です。」
東洋思想の代表的な古典に、いわゆる四書五経があります。『大学』の書はそのうちの一つ『礼記』から抽出されたものといわれています。
そこには自分の身を修め、そのうえで他人とうまくつきあっていく、といったら現実的ですが、いわゆる自己啓発から部下や上司とのつきあい、コーチングなど自他の向上につながる内容が盛りだくさんだと思います。
この本はこの古典の名著を分かりやすく、実社会の例なども含めて解説し、読み解くことができる、まさに人間学の講話と言えます。
著者の伊與田覺は学生時代から、かの安岡正篤氏に師事し、さまざまな教育活動により論語をはじめとする東洋思想の精神を世に広めた方です。
他に『「大学」を素読する』という、氏の肉筆による『大学』全文を載せた一冊があり、声に出してまさに「素読」すると気持ちのいいものです。
申すまでもなく、植物は種の時にすでに根になる部分と枝や葉になる部分とが遺伝子の中で決まっています。
・・・人間もそれと同じでして、生まれた時から本末があります。本になるのはどちらかというと徳性であって、知能や技能は末にある。だからその人間を立派に育て上げる場合には、本になる徳性をしっかり養っていかなければなりません。それに合わせて知能・技能というものを育てていくのです。(P24)
「物に本末あり」 個人の三要素は徳性・知能・技能
知能・技能といったいわゆる知識やスキルも重要ですが、その前に徳性つまり人間学がないとなんにもならないということです。
現在の教育は知能・技能寄りになっており、いかに徳性の教育を進めるかが問題です。
小学校での道徳教育必修化なども話題となっておりますが、「道徳」というのは、周囲の人も自分もまず「自ら」行うことで、お互いに磨き上げられていくものではないかと思います。人から「教わる」というものでもないのではないでしょうか。
この三大聖人は生まれた時が違います。キリストが一番新しくて、釈迦と孔子はそれから五百年あまり前の、だいたい同じ時期に出ています。また、この三人は生まれた土地も違います。けれども、唱えている中身は同じです。表現は違いますよ。キリストは愛といい、釈迦は慈悲といい、孔子は仁という。その表現は違うけれども、内容は同じことをいっているんです。(P48)
孔子を語るとはキリストや釈迦を語ること
宗教は、登り道が違っても目指すところは同じという登山のようなもので、やはり人間同士がいい関係でやっていきたいのです。
キリスト教は教えという感じで、仏教は実践しましょうという感じで、儒教は自ら修めましょうという感じがします。
「其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す」
これは知識の「知」というよりも、智恵の「知」です。それを「致す」ということは、「極める」ということであります。我々が生まれながらに与えられている「知」というものを極めていく。
「知を致すは物を格すに在り」
・・・その「物」の一番基本になるのは何かといいうと、自分であります。自分も物の一つです。だから突き詰めていえば、「物を格す」とは「自己自身を正す」ことになります。(P110)
知を極めるために自分を正す
自分自身の行いを正すことによって、我々が生まれながらに与えられている「知」というものを極めていく。「知」にはいろいろあります。
教科書でも得られる「知識」、経験から得られる「経験知」、そしてなかなか言葉では表現できない、しかし重要な「暗黙知」。
いずれにしても、自分自身の行いが正しければ、そこから発する「知」とそれに伴う行動に間違いはないのではないかと思います。
「其の厚くする所の者を薄くして、其の薄くする所の者を厚くするは、未だ之れ有らざるなり」
具体的にいうと、政治家が政治に対するいろいろな方法を大いに研究していくことは大切ではあるけれども、自己自身を修めることをおろそかにしてはならないということであります。(P116)
自己自身を修めていく根本をおろそかにして、知能・技能は成り立たず
根本である徳性のない知能・技能はかえって人間社会にとって悪とさえなりえます。科学技術も徳性に基づいて使用すれば人間の助けとなりますが、そうでなければ、人間の害となります。
「故に君子は、必ず其の独を慎むなり」
そこで立派な人物というものは、必ず自分一人を慎む。誰が見てなくても、誰が聞いてなくても自己自身で慎んでいく。
『大学』で非常に重要なことが、この「慎独」です。我々が立派な人間になる、その一番基本になるものが慎独なんです。(P168)
「慎独」は立派な人間になる基本となる
この『大学』は、さまざまな故事成語の源泉ともなっており、他の部分には「小人間居して不善を為し、・・・」などもあります。
自分も一人のときには、他人が見ていないからと、いろいろと悪いこともやっている気がします。そういうところから改めなくてはならないのでしょう。
「所謂国を治むるには、必ず先ず其の家を斉うとは、其の家教う可からずして、能く人を教うる者は之れ無し」
自分の家人もよく教えることができない者で、よく人を教え導くことはできないということ。なるほど、「お前の家はどうだ」といわれたらもうそれでおしまいですからな。(P187)
家は大事
仕事一筋で家庭を顧みない、というのも一頃問題となりましたが、人生のタスクはアドラー流にいうと仕事、交友、愛です。この3つが人生の三本柱なのが人間です。
仕事がうまくいかないとき、ふと家庭に目を向けて、子どもの相手をするだとか、食器洗いをするだとか、そういったこともいいのかもしれません。
「一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興り、一人貪戻なれば、一国乱を作す。其の機此の如し。此を一言事を僨り、一人国を定むと謂う」
・・・そうした中で、国全体が良くなるためにはお互いに譲り合わなければいけないと強調したのが、あの米沢藩の上杉鷹山でありました。鷹山はこの考えに基づいて、細井平洲という学者の指導を受けながら、興譲館という学塾をつくった。そして国全体が士も民もお互いに譲り合い、協調していった。(P190)
「譲」の精神が国を興すもとになる
山形県の誇る名君である上杉鷹山は、倹約による藩政の立て直しなど様々な事績がいわれています。そういった活躍も、この『大学』にもあるような精神から生まれたのかもしれません。
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四書五経というと、なんとなくとっつきにくい感じがしますが、この著者の本はまるで実際に講話を聴いているように身に入ってきて、勉強になる気がします。
『大学』をはじめとする古典の内容を、自分の周囲や仕事、家庭に当てはめて考えなおしてみるのも面白いかもしれません。仕事や家庭を通しての生き方を充実したものにできると思います。
他には
伊與田氏による毛筆の浄書にふりがな付きで、『大学』の全文が書き下しで掲載されています。上部には注釈もあり、内容を確かめながら読むことができます。
しかし、この本の売りはやっぱり、朗々と読みやすいことではないでしょうか。毛筆の文字も読むに清々しいものです。
中国古典の中でも決して長くはなく、ゆっくり読んでも20分くらいで読めてしまい、何度も読んでいると暗唱できます(私も一時期暗記していました)。
「 上に惡(にく)む所を以て下を使う毌(な)かれ」など、日頃の仕事でも役立つ記述が満載ですので、ぜひ全文も読んでみてください。